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カテゴリ: 格闘技

【プロレス】アントニオ猪木「一番怖かったのはアリ」 40年前の異種格闘技戦を振り返る
1:2016/04/21(木) 10:09:53.74 ID:
日刊スポーツ 4月21日(木)10時1分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160421-00000094-nksports-fight
元ボクシング世界王者ムハマド・アリとの異種格闘技戦から40年を迎えるアントニオ猪木参議院議員(73)が20日、
議員会館で取材に応じた。

 格闘技世界一決定戦と銘打った世紀の一戦は76年6月26日に行われた。
猪木氏は「これまでいろんな相手と異種格闘技をやってきたが、一番怖かったのはアリ」と打ち明けた。
また、試合当日は、アリがグローブにシリコンを仕込み、
猪木氏も対抗してシューズのつま先部分にアルミ状のものを詰める用意をしたという。
「何回かパンチが頭に当たったらコブになった。相当硬かった。オレは詰めるのをやめたけどね」。

試合後もファイトマネーでもめたが、その後も親交は続いた。
「生まれ変わっても、またアリとやりたいね」と感慨深げに話した。
猪木氏が会長を務めるIGFは、記念日に当たる6月26日にマカオで40周年記念公演を開催する。

3:2016/04/21(木) 10:11:24.96 ID:
拳銃持った奴がリングサイドにいたらそりゃ怖いだろう
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【プロレス】坂口征二が語る「馬場と猪木」本当の仲
1:2016/03/14(月) 06:10:57.31 ID:
両雄並び立たずとよく言う。17年前に61歳で逝ったジャイアント馬場とアントニオ猪木(73)もまた然りである。
両者の不仲説は有名だが、その原点は、猪木の日本プロレス追放劇(1971年12月)と言われる。
当時、彼らの後輩だった新日本プロレス相談役の坂口征二氏(74)が、二人の“本当の仲”について初めて語った。

 ***

坂口氏に二人の仲について単刀直入に聞くと、

「今回の取材は答えにくい話だな。こんな真正面から聞かれたことは、今までになかったからね。皆聞きづらいだろうよ」

と語るように、プロレス関係者の間では“タブー”とされていた。
坂口氏が馬場の誘いで、日本プロレス入りしたのは67年2月。米国修行を終え帰国、猪木と初めて会ったのは70年3月頃だったが、

「その頃から猪木さんには、馬場さんに対する対抗心があったと思う」

と、坂口氏が続ける。

「馬場さんと猪木さんは、同期だけど、プロレス入りした時から待遇が違った。
馬場さんは、マイペースな性格だったけど、力道山の下、エリートコースを進んだ。
一方、猪木さんは下積みをやらされた。辛い時期があったから、馬場さんに対して“そうはいくか”という気持ちがあったんじゃないかな」

それを象徴するこんな逸話がある。

「下積み時代、猪木さんは練習中、他のレスラーに“馬場さんはバーベルを何回上げた?”と聞いた。
相手が30回と答えると、猪木さんは50回上げたそうだ。
地方巡業中の休みの時なんかは、オレや馬場さんは旅館で麻雀をしていても、猪木さんは山本小鉄さんや他のレスラーと早朝からトレーニングしている。
派閥とは言わないまでも、馬場さんと猪木さんのグループに分かれていたね」

猪木は、当時から大言壮語を並べることで知られていた。日本プロレス時代、

「猪木さんは、馬場さんとの対決をコミッショナーに訴えたことがあったが、当時は外国人レスラーと日本人の対決がメイン。
日本人同士で戦うなんて前座や若手でなければあり得なかった。
猪木さんも却下されるのを見越して対決を要求したのだろうが、思ったことは直ぐに言っちゃう性格なんだ。
馬場さんは、そういう猪木さんの発言に対しては、一切答えなかったね」

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160314-00506500-shincho-fight
デイリー新潮 3月14日(月)5時0分配信

http://stat.news.ameba.jp/news_images/20160314/05/ac/nw/j/o040006001.jpg


ジャイアント馬場 王者の魂.


炎のファイター/アントニオ猪木とザ・ファイターズ
2:2016/03/14(月) 06:11:43.28 ID:
■ホテルで密会

71年12月、猪木が日本プロレスを追放され、同時に二人は決裂する。

当時、選手の間では給料への不満が出ていたが、

「猪木さんの後援者が猪木さんに、上層部に経理をきちんと明かすよう求めたらどうか、と焚き付けたらしい。
そこで、猪木さんは馬場さんに協力を求め、馬場さんも一度は賛同したんだ」

ところが、そこへ意外な人物が猪木の動きを阻止すべく動いた。後に、悪役レスラーとして有名になった上田馬之助である。

「上田さんは、馬場さんに『実は猪木がこの件を利用して会社を引っ掻き回そうとしている』と言ったようだ。
猪木さんも後援者にそそのかされる一方、馬場さんの上に立ちたいという気持ちがあったのかもしれない。
最終的に馬場さんは降りてしまい、猪木さんの計画は全てパーになってしまったんだ」

結局、猪木は日本プロレスを追放され、72年1月に新日本プロレスを設立した。

「馬場さんは、この件に関してはその後何も語らなかったね。
途中まで共謀したのは事実だし、選手会長を辞め、一時は謹慎状態になっていた。自分も悪かったと思っていたのだろう」

72年10月、馬場も全日本プロレスを設立し、坂口氏は73年4月、新日本プロレスに合流した。

「二人が別々の団体に分かれてからは、表向き話をすることはほとんどなくなった。ところが、実は密かに会っていた時期もあるんだ。
あれは85年くらいかな。当時、団体の対抗心から外国人レスラーの引き抜きが激しくなってね。
引き抜き防止の協定書を作る必要が出てきた。そこでオレが馬場さんと猪木さんを引き合わせたんだ。
で、これをきっかけに2年間くらい、毎月1回、帝国ホテルや全日空ホテルで会っていた」

坂口氏は、途中から同席するようになったという。

「その時は、お互いニコニコして、実に和やかな雰囲気だったよ。昔みたいに『寛至』『馬場さん』なんて呼び合ってね。
下積みの頃は、一杯のラーメンを二人で分け合った、とか懐かしそうに話していたな」

 プロレス界のため、統一コミッションを作る計画も持ち上がった。

「お互いの団体の弁護士も入れて、話し合っていました。
でも、その計画は途中で躓(つまず)いてね。そうこうしているうちに、猪木さんが参院選挙(89年)に立候補し、二人が会う機会もなくなってしまったんだ。
オレの知る限り、二人が面と向かって話したのは、あの時が最後だと思うよ」

結局、二人はお互いをどう見ていたのだろうか。

「猪木さんにとって、馬場さんは最後まで何が何でも上に立ちたいと思う相手だったのだろう。
だからこそ、何度となく戦いたいと言い続けた。それに対し、馬場さんは猪木さんと同期とはいえ、年齢は5歳上だったし、上から目線だったんじゃないかな。
途中で決裂はしたが、いがみ合っていたわけでもない。実力は認め合っていたからね。そういう意味で、真の良きライバルだったんだと思うよ」

若手時代を除けば、最後まで実現しなかった馬場vs猪木戦。馬場にその気が全くなかった、というのが真相である。

「特別ワイド 迷宮60年の最終判決」より

「週刊新潮」2016年3月10日号 掲載
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【相撲】琴奨菊が初V…日本出身力士の優勝は10年ぶり ★2
 
1:2016/01/24(日) 18:00:41.04 ID:
読売新聞 1月24日 17時17分配信

 大相撲初場所は24日、東京・両国国技館で千秋楽を迎え、大関琴奨菊(31)(本名・菊次(きくつぎ)一弘、福岡県柳川市出身、佐渡ヶ嶽部屋)が14勝1敗で初優勝を飾った。

 モンゴル出身で日本に帰化した旭天鵬(現大島親方)が2012年夏場所で優勝した例を除き、日本人力士が優勝するのは、06年初場所の栃東(現玉ノ井親方)以来、10年ぶり。
1敗で単独首位の琴奨菊は豪栄道との大関対決を突き落としで制し、初優勝が決まった。

 琴奨菊は大関在位26場所目。今場所は、初日から持ち前の鋭い出足と得意のがぶり寄りで快進撃。10日目からは3日連続で鶴竜、白鵬、日馬富士の3横綱を倒した。
13日目に豊ノ島に敗れて土がついたが、勝ち星を自己最多の14に伸ばし、念願の賜杯を抱いた。

1の立った時間: 2016/01/24(日) 17:13:59.39
※前スレ
【相撲】琴奨菊が悲願初V!豪栄道下し1敗死守 和製力士10年ぶり賜杯
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1453623239/
【大相撲初場所、大関琴奨菊が14勝1敗で初優勝…日本出身力士の優勝は10年ぶり →人柄がかいまみえるいい優勝インタビューだったな】の続きを読む

【プロレス】中邑真輔が新日本プロレスを退団、WWE入りへ
 
1:2016/01/07(木) 11:20:40.60 ID:
インターコンチ王者・中邑が新日プロ退団!WWE入り
1月7日(木)10時50分配信

新日本プロレスのIWGPインターコンチネンタル王者・中邑真輔(35)が1月末をもって
同団体を退団することが、6日までに本紙の取材で明らかになった。すでに新日プロ側も了承し、
退団後は世界最大のプロレス団体・WWE(米国)に挑戦すると見られる。
2002年のデビューから新日プロのトップ戦線を走り続けたプロレス界のカリスマが、
新たな挑戦をスタートさせる。

中邑は4日の東京ドーム大会でAJスタイルズ(37)を退けてV2に成功。
試合後「世界。世界ですね。自分のさらなる高みのステージを目指して生きていきたい」と、
早くも次なる戦い=海外進出に向けて目を輝かせていた。

☆なかむら・しんすけ=1980年2月24日生まれ。京都府出身。
青山学院大学ではレスリング部で活躍。卒業後の2002年に新日本プロレスに入団。
同年8月に日本武道館の安田忠夫戦でデビューし、大みそかには総合格闘技にも初挑戦。
03年12月には史上最年少記録となる23歳9か月でIWGPヘビー級王座を獲得。同王座は3度戴冠した。
「キング・オブ・ストロングスタイル」の異名を取り、棚橋弘至とともに新日プロのエースとして活躍。
現在はIWGPインターコンチネンタル王座の絶対王者として君臨している。
必殺技はボマイェ。188センチ、104キロ。

Yahoo!ニュース(東スポWeb 1月7日(木)10時50分配信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160107-00000013-tospoweb-fight
【中邑真輔が新日本プロレスを退団、WWE入りへ→どんな設定になる→セコンドにパツキン女従えてクネクネダンスする】の続きを読む

【格闘技】魔裟斗 山本KIDからダウン奪い判定勝ち 6年ぶり復帰で奇跡起こした
 
1:2015/12/31(木) 23:00:53.20 ID:
◇「KYOKUGEN2015」K―1ルール3分3R 魔裟斗―山本“KID”徳郁(2015年12月31日)

立ち技系格闘技K―1の全盛期を支えた“反逆のカリスマ”魔裟斗(36)が31日、TBSの特番「史上最大の限界バトル KYOKUGEN2015」で6年ぶりに現役復帰し、
現役UFC選手の山本“KID”徳郁(38)と3分3RのK―1ルールで対戦。2Rに左フックでダウンを奪い、3―0で判定勝ちした。

04年大みそかの「K―1Dynamite!!」以来、11年ぶりの再戦。前回は両者がダウンを奪い合う激闘の末、魔裟斗が2―0判定勝ちを飾った。

一夜限りの現役復帰となった魔娑斗は少し太めになった印象も、1Rから切れのある右ハイキックを繰り出した。山本KIDもキックで応戦。緊張感漂う立ち上がりとなった。

2R、魔娑斗はプレッシャーを強めると、左フックでダウンを奪った。最終3Rもコーナーに追い詰め連打を繰り出すなど終始、押し気味に試合を終えた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151231-00000114-spnannex-fight
スポニチアネックス 12月31日(木)22時54分配信
【【格闘技】魔裟斗 山本KIDからダウン奪い判定勝ち→須藤元気とKIDでよかった / KIDのあのやる気の無さと試合後の俺余裕だからアピールなんなの?】の続きを読む

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